土佐清水・小林明道さんの歩む道
パリから帰って来て、たまったメールを読んでいましたら
四万十町窪川で知り合った小林明道さんからメールが来ていました。
体重100キロの巨漢。
四万十町での中西繁ギャラリーでの個展。
新制作協会展に出品。
高知市の商店街のシャッター・アート、と紹介してきました。
アートを追究しながらも、生活もあるわけで、
新たな道を探ることになりました。とても感動的な手紙でしたので
ここに本人の了解のもとに全文紹介します。
中西先生
ご無沙汰しております。
高知県土佐清水市の小林明道です。
静岡では、大変貴重な作品の数々を拝見させて頂きましてありがとうございます。
やはり中西先生は僕にとっての大きな目標です。
表現の世界で、どちらが上とか下とかは無いと思っておりますが、中西先生の作品から伝わる大きな力は、まだまだ、僕には出せません。
経験はおろか、見る者を魅了する力が、僕には全く及ばない事を実感させられました。
作品集で、中西先生の作品を見るのも好きですが、やはり実物を見ると入ってくるものが違いますね。
この様に、影響を与えてくださる方が、身近に感じられる事はとても恵まれているように感じます。
業界の右も左も分からない中、アドバイスにご指導頂きありがとうございます。
実は、今年は全く制作活動を行っていません。ただ、他の事が忙しくなったわけではなく。
気持ちが、前に出なくなっています。
抽象表現は、技術もありますが僕の場合は「心」がとても重要な画材になってます。
今年も、新制作展の方から応募書類が届きましたが、資金面もそうですが「心」が出なくなってました。
そしてこの前、中西先生の静岡での展覧会を見学させて頂きまして、スタッフの中で僕の事を中西先生のブログなどで、拝見してくれた方々にお声賭けしてもらいとても嬉しかったです。
これからも、表現者活動を続けて行き、中西先生が高知県から導いた「小林明道」のサクセスストーリーを酒の肴に中西先生の仲間と酌み交わすのが僕の今の目標です。
本当は、静岡でお会いした時にお話ししたかったのですが、素晴らしい展覧会に水をさすのも、いかがなものかと思い控えさせていただきました。
両親が実家の土佐清水市で農業を生業にしている事は、ご存知だと思います。
高齢の両親には、家計を支えて僕を応援していく金銭的能力が難しくなっているのは、薄々気が付いていましたが、この前、母親から直接相談を受けて、父親が体力的には問題ないのだが、耳が遠く成って来ているのと、物事の理解と記憶力が農業に差し支えるように成って来ているので、何かいい方法はないかと相談され、農業を生業にしたい移住者等も知り合いにいますので、声をかけてみたのですが、いい返事がもらえず。
それから、父親と直接相談して、父親がなぜこの土地にこだわり、ここで生活をし農業を選択したのかを詳しく聞きました。
父親は、昭和18年生まれです。戦後の物がない時代にこの田畑があったから飢えをしのげたし、物々交換をする事で、生活をしていた話をしてくれました。
それから、紆余曲折あり父親は中学を卒業後に大阪府で住友鉄鋼に就職していたそうです。
そして、父親が24歳の時、父親の兄が事故で亡くなりました。
その時、大阪で身を固める約束をしていた女性もいたそうです。ですが、祖母に説得され大阪を離れ、実家のある土佐清水市に帰ってきたそうです。
そこで、大工の弟子に入り、兼業農家を始めたとの事でした。その後、大工の弟子抜けを果たし母とお見合い結婚しました。
そういう経験もあり、僕が実家に縛られない生き方をする事には反対はないです。
ですが、戦後の物資の無い中で小林家を生かしてくれたのは、ご先祖様が守って来くれた、この土地があったからと、僕も心から思っています。
そんな気持ちもあって、東京都から一番移動時間がかかると言われるこの土佐清水市という土地にこだわり世界にアートを発信したい気持ちが強いです。
だから、この土地でご先祖様を大切にして、生きて行きたいと思っています。
そして、母と父の話を総合的に考えて、僕が今の小林家の農業を受け継ぐ事を決めました。
そこで、父親に言われたことなのですが、受け継ぐ事は嬉しいが、ちゃんと守っていけないなら手放したい。だから、中途半端じゃ困る。
と言われて、そこで提案をされた事が1年から3年農業を一緒にやって出来そうだと判断したら、譲り渡す。との事でした。
正直、長いとは思いましたが、今現在現実的な所、表現者活動だけでは僕の生活どころか、両親の生活も守れません。
ですから農業になれるまでは、アーティスト活動は無期限で休業することにしました。
表現者活動で、生活するのは僕の願いですが背に腹は代えられないです。
表現者活動はいつも意識してますし、特に抽象画を描く事は僕にとってはとても素直になれる瞬間の一つです。
生涯表現者でいる事が僕が望むことです。
筆を折る気は、一切ございません。ただ休むだけです。ただ発表を控えるだけです。
ここに来て、優先順位が変わっただけです。その優先順位はいつか必ず変わります。
ですから、約束させて下さい。必ず個展を行い「中西繫先生」をご招待させて頂きます。
こちらは、12月に入ってから急に気温が10℃を下回る日も増えてきました。元気で健全であれば、必ず実現できると信じてます。
中西先生も、元気で僕のような者に刺激を与え続けてください。
長くなりましたが、中西先生が導いて下さったお陰で、今の僕があるのだと思います。
なので、中西先生には報告をしておかないと僕が苦しくなると感じました。
急な長文のメールで驚かせたと思いますが、今後とも小林明道を忘れることなくお見守りいただければ幸いです。
では、失礼します。
小林明道
農業も絵画芸術も人間の所作という点では変わらないと
思うのです。剣と鍬とが共通するとも言われます。
カツオ漁船も酪農も体験してきた小林さんが、本格的に農業に取り組む。
頑張って欲しいです。
四万十町窪川で知り合った小林明道さんからメールが来ていました。
体重100キロの巨漢。
四万十町での中西繁ギャラリーでの個展。
新制作協会展に出品。
高知市の商店街のシャッター・アート、と紹介してきました。
アートを追究しながらも、生活もあるわけで、
新たな道を探ることになりました。とても感動的な手紙でしたので
ここに本人の了解のもとに全文紹介します。
中西先生
ご無沙汰しております。
高知県土佐清水市の小林明道です。
静岡では、大変貴重な作品の数々を拝見させて頂きましてありがとうございます。
やはり中西先生は僕にとっての大きな目標です。
表現の世界で、どちらが上とか下とかは無いと思っておりますが、中西先生の作品から伝わる大きな力は、まだまだ、僕には出せません。
経験はおろか、見る者を魅了する力が、僕には全く及ばない事を実感させられました。
作品集で、中西先生の作品を見るのも好きですが、やはり実物を見ると入ってくるものが違いますね。
この様に、影響を与えてくださる方が、身近に感じられる事はとても恵まれているように感じます。
業界の右も左も分からない中、アドバイスにご指導頂きありがとうございます。
実は、今年は全く制作活動を行っていません。ただ、他の事が忙しくなったわけではなく。
気持ちが、前に出なくなっています。
抽象表現は、技術もありますが僕の場合は「心」がとても重要な画材になってます。
今年も、新制作展の方から応募書類が届きましたが、資金面もそうですが「心」が出なくなってました。
そしてこの前、中西先生の静岡での展覧会を見学させて頂きまして、スタッフの中で僕の事を中西先生のブログなどで、拝見してくれた方々にお声賭けしてもらいとても嬉しかったです。
これからも、表現者活動を続けて行き、中西先生が高知県から導いた「小林明道」のサクセスストーリーを酒の肴に中西先生の仲間と酌み交わすのが僕の今の目標です。
本当は、静岡でお会いした時にお話ししたかったのですが、素晴らしい展覧会に水をさすのも、いかがなものかと思い控えさせていただきました。
両親が実家の土佐清水市で農業を生業にしている事は、ご存知だと思います。
高齢の両親には、家計を支えて僕を応援していく金銭的能力が難しくなっているのは、薄々気が付いていましたが、この前、母親から直接相談を受けて、父親が体力的には問題ないのだが、耳が遠く成って来ているのと、物事の理解と記憶力が農業に差し支えるように成って来ているので、何かいい方法はないかと相談され、農業を生業にしたい移住者等も知り合いにいますので、声をかけてみたのですが、いい返事がもらえず。
それから、父親と直接相談して、父親がなぜこの土地にこだわり、ここで生活をし農業を選択したのかを詳しく聞きました。
父親は、昭和18年生まれです。戦後の物がない時代にこの田畑があったから飢えをしのげたし、物々交換をする事で、生活をしていた話をしてくれました。
それから、紆余曲折あり父親は中学を卒業後に大阪府で住友鉄鋼に就職していたそうです。
そして、父親が24歳の時、父親の兄が事故で亡くなりました。
その時、大阪で身を固める約束をしていた女性もいたそうです。ですが、祖母に説得され大阪を離れ、実家のある土佐清水市に帰ってきたそうです。
そこで、大工の弟子に入り、兼業農家を始めたとの事でした。その後、大工の弟子抜けを果たし母とお見合い結婚しました。
そういう経験もあり、僕が実家に縛られない生き方をする事には反対はないです。
ですが、戦後の物資の無い中で小林家を生かしてくれたのは、ご先祖様が守って来くれた、この土地があったからと、僕も心から思っています。
そんな気持ちもあって、東京都から一番移動時間がかかると言われるこの土佐清水市という土地にこだわり世界にアートを発信したい気持ちが強いです。
だから、この土地でご先祖様を大切にして、生きて行きたいと思っています。
そして、母と父の話を総合的に考えて、僕が今の小林家の農業を受け継ぐ事を決めました。
そこで、父親に言われたことなのですが、受け継ぐ事は嬉しいが、ちゃんと守っていけないなら手放したい。だから、中途半端じゃ困る。
と言われて、そこで提案をされた事が1年から3年農業を一緒にやって出来そうだと判断したら、譲り渡す。との事でした。
正直、長いとは思いましたが、今現在現実的な所、表現者活動だけでは僕の生活どころか、両親の生活も守れません。
ですから農業になれるまでは、アーティスト活動は無期限で休業することにしました。
表現者活動で、生活するのは僕の願いですが背に腹は代えられないです。
表現者活動はいつも意識してますし、特に抽象画を描く事は僕にとってはとても素直になれる瞬間の一つです。
生涯表現者でいる事が僕が望むことです。
筆を折る気は、一切ございません。ただ休むだけです。ただ発表を控えるだけです。
ここに来て、優先順位が変わっただけです。その優先順位はいつか必ず変わります。
ですから、約束させて下さい。必ず個展を行い「中西繫先生」をご招待させて頂きます。
こちらは、12月に入ってから急に気温が10℃を下回る日も増えてきました。元気で健全であれば、必ず実現できると信じてます。
中西先生も、元気で僕のような者に刺激を与え続けてください。
長くなりましたが、中西先生が導いて下さったお陰で、今の僕があるのだと思います。
なので、中西先生には報告をしておかないと僕が苦しくなると感じました。
急な長文のメールで驚かせたと思いますが、今後とも小林明道を忘れることなくお見守りいただければ幸いです。
では、失礼します。
小林明道
農業も絵画芸術も人間の所作という点では変わらないと
思うのです。剣と鍬とが共通するとも言われます。
カツオ漁船も酪農も体験してきた小林さんが、本格的に農業に取り組む。
頑張って欲しいです。
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